【路面電車存続のための施策】

 広島もここで最後かなということであったのですが、ちょうど私が入社した頃、線路めくったらなんぼかかるかという計算をやれ、というようなこともちょうどこの時期にありました。

(電車にとってかわる交通は?)

 昭和45年までは運輸部と技術部に分かれておりまして、電車・バスの運輸部門と電車・バスの技術部門に分かれていた。それを電車とバスに分けよう、そしてそれぞれがどう生きていくか考えようというので、昭和45年に機構改正して電車部になったのですが、その時の初代の電車部長が、今の会長の奥窪央雄という方ですが。これが辞令をもらうときに、電車の葬式を出す辞令なら私はいらない、というのを話したというのが今も残っておりまして、結局なぜそう言ったかというと、今電車をやめたら広島市内に電車にとってかわる交通がないじゃないか、バスがあるが、バスにしたら大体電車1両でバスなら2両ないし3両いります、これは乗車定員の問題からして圧倒的に電車が多いですから、それだけ電車の数以上に倍以上にバスが増える、そうすると今の渋滞にそれ以上にまた拍車をかけるようになるじゃないか、それなら電車を撤去したら1本道路ができるからそこを走ればいいじゃないか、そうじゃない1本通ったなら他の自動車もみんなよってくるからとてもじゃないけど渋滞解消にならん。ということでもう少しやれるだけやってみたい、そういうことを役員会ではかったから、それもそうだやめるのはいつでもやめれるからやってみよう、というのでやったんですが、その時何に取り組んだかと言いますと、まず走れるようにしてもらおう、ということだったんですね。

(軌道敷内諸車乗り入れ禁止の措置)

 それでここで取り組んだのが、昭和46年12月1日から軌道敷内諸車乗り入れ禁止の措置をやっていただきますと、ここで利用者が戻ってきました。電車の定時制が戻ってきて、電車が走れるようになったから、渋滞のバスなんかよりは電車の方が速いということになってお客さんが戻ってきたわけですね。

 ここが結局いまの日本の路面電車の境目だったと思います。ここでわが社が初めてだったと思います軌道敷内乗り入れ禁止をやってもらったのが.これがたちまち他都市にも普及していきました、これが非常にラッキーでございました、ついていました。

 というのが、元々道路交通法21条には路面電車軌道には自動車が入ってはいけないことになっていますね、それを広島県の場合には、昭和38年に部分解除をしたわけなんです。自動車が渋滞しだしたものですから、軌道内に入れたら渋滞が少し緩和するだろうということで軌道内乗り入れ可にしてしまった。それで電車がにっちもさっちもいかなくなった。そういったようなことで、それを元通り禁止にしてもらおうということで、県警の方に当時日参しました。

(アメリカとヨーロッパ)

 その時に非常にラッキーだったのは、担当の方がちょうどヨーロッパに行かれておりまして、それまでの方は全部アメリカへ行ってらっしゃった、アメリカに行って交通事情調査をすると、町の中の邪魔者の路面電車はどんどん無くなって撤去ばっかりなんですね、それでは日本もということであちこちでどんどん撤去になったんですが、その方は、もうアメリカの事例は各調査の事例があるので、私はヨーロッパへ行くというのでヨーロッパへ行かれた。

 ヨーロッパへ行ってみると、ドイツなんかでは、路面電車を都市の基幹交通として残して、それを取り巻くようにバスを補完交通にして、バスから電車の駅で乗り換えて都心に電車で入る。いうことをやっていた。

 その時に乗りかえるときに車でくる人も多いのでパークアンドライドもやろうというので、500台とか1000台とかいう大規模なパークアンドライドを最寄の駅に設けた。それで要するにその町々が、都市が何をコンセプトにそういうことをやっていたかというと、都心部にマイカーを、不要な車を入れないという政策をやっていた。それで確かに行ってみたらまちの中が、アメリカに比べて非常に少ない。バスの数も少なくて排気ガスも比較的アメリカより良い、という風な状況を見て帰られた。


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